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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)4153号 判決

原告 伊丹京子

右訴訟代理人弁護士 片村光雄

小片喜一郎

小川勝芳

被告 五味芳保

右訴訟代理人弁護士 金田賢三

金田英一

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

原告訴訟代理人は、「(一) 被告は、原告に対し、金一、〇一四万三、五一七円及びこれに対する昭和五二年五月二〇日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。(二) 訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決並びに第一項につき仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求めた。

第二請求の原因

原告訴訟代理人は、本訴請求の原因として、次のとおり述べた。

一  原告は、昭和二四年三月二〇日生れの女子であり、被告は、「五味歯科医院」を開業する歯科医である。

二  原告は、昭和五〇年三月下旬、被告に虫歯の治療及び下顎前歯部内側の直径二センチメートルのこぶ状の物につき診断を受けたところ、虫歯について治療がなされただけで、右こぶ状のものについては、「何でもない。」ということで何らの治療もなされなかった。その結果、原告は、被告の右診断を信頼し、何の手当もせず、放置していたが、右こぶ状の物がますます拡大したので、昭和五一年三月二日、日本大学歯科病院(以下「日大歯科病院」という。)で右こぶ状の物について改めて診断を受けたところ、右こぶ状の物は、「下顎骨エナメル上皮腫」であり、手遅れである旨の診断を受け、同年四月七日、同病院へ入院して手術を受けた結果、ようやく幅五ミリメートルの下顎骨を残存させることができ、一応治癒したけれども、何時再発するか分らず、再発した場合には、人造下顎で顎を保持しなければならなくなる状況である。

三  被告は、昭和五〇年三月下旬、原告から右こぶ状の物の診断を依頼されたとき、歯科医であるからレントゲン撮影等の検査をして診断すべき義務があるにかかわらず、これらの検査を怠った過失により「何でもない。」との誤った診断をしたものであり、被告がレントゲン撮影をし、正しく診断して直ちに治療をしておれば、下顎骨を現状ほど失うことがなかったものというべく、被告の右不法行為の結果、原告は後記のとおり甚大な損害を被ったものである。

四  原告は、被告の前記行為により、次の損害を被ったものである。

1  治療費

日大歯科病院に治療費として、金一〇万二、五一七円を支出し、同額の損害を被った。

2  看護婦付添料

日大歯科病院入院中看護婦付添料として、金三万六、〇〇〇円を支出した。

3  身体検査代金

日大歯科病院入院時の身体検査代金として、金五、〇〇〇円を支出した。

4  慰藉料

原告は、前記のとおり下顎骨の一部を失ったほか、その症状再発の可能性が大きく、その度ごとに人造下顎を作り、これで補強しなければならない状況にあり、これによる精神的苦痛は多大なものがあり、これに対する慰藉料としては、金一、〇〇〇万円が相当である。

五  よって、原告は、被告に対し、右合計金一、〇一四万三、五一七円及びこれに対する不法行為の日の後であり、本件訴状送達の日の翌日である昭和五二年五月二〇日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第三被告の答弁

被告訴訟代理人は、請求の原因に対する答弁として、次のとおり述べた。

一  請求の原因第一項の事実は、認める。

二  同第二項の事実中、被告が、原告主張の頃、原告の虫歯の治療をしたことは認めるが、その際原告主張の下顎こぶ状の物につき診断を依頼されたことは否認し、その余の事実は知らない。

三  同第三、第四項の事実は、争う。

第四証拠関係《省略》

理由

(争のない事実)

一  被告が「五味歯科医院」を開業する歯科医であり、原告が、その主張の頃、被告経営の医院で虫歯の治療を受けたことは、本件当事者間に争いがない。

(原告のエナメル上皮腫の診療の経過)

二 右当事者間に争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、原告は、昭和五〇年三月下旬頃、オーストラリアへ旅行するに先だって、虫歯の治療と下顎部右側前歯の歯茎内側に発生していた直径約一・五センチメートル大の半球様のこぶ状の物(当事何らの痛みもなかった。)につき、被告の診察を受けたところ、被告は、虫歯について治療を施したが、右こぶ状の物については、「軟骨であるから、心配はいらない。」「レントゲンの必要はない。」旨の診断をしたので、原告は、同年四月上旬オーストラリアへ九か月の予定で旅行に出たこと、旅行中右こぶ状の物は徐徐に大きくなり、それまでは痛みを感じなかったが、昭和五一年一月上旬日本へ帰る約一か月前頃には下顎部前歯がほとんどぐらぐらになり、こぶ状の物が歯茎前面にまで出てきたため不安になり、また、ビザの期間も切れるので、同年一月九日帰国し、その後約二か月を経た同年三月二日、日大歯科病院で診察を受け、レントゲン撮影、患部の組織検査等を経た後四、五日を経て、エナメル上皮腫と診断され、同年四月七日、日大歯科病院に入院し、翌日手術を受けた結果、下顎骨右側を部分的に削り、下顎部の左奥歯一本と右奥歯二本を残して入歯を施し、同月二四日退院し、その後同年一〇月三一日まで通院し(実日数二五日)、昭和五二年三月二日現在再発の徴候はみられないこと、及び現在食事は柔らかい物しか食べることができない状況にあること、以上の事実を認めることができ、被告本人尋問の結果により成立を認むべき乙第一号証(被告の医院の診療録)には、原告に対しては、虫歯の治療をした趣旨の記録があるのみで、右こぶ状の物について診察をした事実については何らの記載もなく、また、被告本人尋問の結果も同趣旨であるが、右はいずれも前段認定に供した各証拠に照らし、にわかに信用できず、その他に叙上認定を覆すに足りる証拠はない。

(被告の診療上の過失の有無について)

三 原告は、被告が前記診断時において、右こぶ状の物についてレントゲン検査を行わず、「何でもない。」という誤った診断をしたことは、歯科医としての注意義務を怠ったもので、この点に過失がある旨主張するから、以下この点につき審究するに、《証拠省略》を総合すると、前記認定のとおり、原告の右こぶ状の物は、エナメル上皮腫であるが、この腫瘍の発育は一般にゆるやかで経過が長く、腫瘍に気付いてから一〇年以上も大きさが変わらないものもあるが、嚢胞形成の著明なものではやや速度が早いこと、エナメル上皮腫の発現度はわが国では欧米に比しやや多いが比較的まれなものであり、その治療としては手術をしないで経過をみる場合もあること、原告が右こぶ状の物に気付いたのは、被告が診察した時点から約五、六か月前であったこと、原告の手術を担当した日大歯科病院の堀稔医師の証言によると、原告の場合、同医師の初診時の状態では、レントゲン撮影は、一般開業医の設備及び技術では、撮影方法として撮影しにくいほか、一般開業医のレベルで行うレントゲン撮影では病名診断は困難であること、及び被告経営の医院は、レントゲン設備はあるものの、被告のほかには、助手(歯科衛生士、歯科技工士の資格を有する者ではない。)一名を置く最小規模の診療所であること、以上の事実を認めることができ、右認定の諸事実に、前記認定の原告が被告の診断を受けた当時の病状の程度及びその後日大歯科病院の診断を受けるまでの約一年弱の間の病状の進行経過を総合勘案すると、一般開業の歯科医としての医療水準からみて、被告が原告を診断した時点において、原告の右こぶ状の物について的確な診断を下すことはその症状からなお困難があったものとみるを相当とし、被告がレントゲン撮影その他の検査を行わず、また、他の十分な設備の整った病院の診断を受けるよう原告に勧めなかったからといって、右段階において、直ちに被告に一般開業の歯科医師として通常用うべき注意義務(本件において、大病院の医師としての高度の注意義務を被告に要求することは、叙上認定の事実に徴し、妥当でない。)を怠った過失があるものとして、その責を問うことはできないものというべく、したがって、被告に原告主張の過失があったものと認めることはできない。

(むすび)

四 以上の次第であるから、被告に過失があることを前提とする原告の本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 武居二郎)

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